全員集合は初めて?!
当初次男一家がこどもの国へ誘ってくれたのがきっかけ。
それならと、保育園を退所してエネルギーを持て余しているだろう長男宅の上の子もどうかと誘った。
ところが、そのこどもの国がまだ自粛中で全てのイベント中止だったので、行き先を再検討。
夫の提案で、他の公園に決定。
その変更先が長男家の近場ということで、
生まれて1か月半のⅯ君も、急遽参加して、今回従兄弟合わせて4人の初めてのお出かけが実現したのでした。
それにしても、2か月もたってない乳児なのに大丈夫?かと内心おもったのですが、2週間ぶりに会ったⅯ君は、お兄ちゃんの公園に毎日付き合っているとかで、2か月の乳児には見えないほど、既に足が小麦色(笑)、お嫁さんも久しぶりのお出かけでリフレッシュできたようで良かったです。
そして、帰り支度中、察した孫二人が「まだ帰らない〰️!」と駄々をこねた泣き顔が、子供達の昔の姿と重なり何とも可愛かったです。
当初次男一家がこどもの国へ誘ってくれたのがきっかけ。
それならと、保育園を退所してエネルギーを持て余しているだろう長男宅の上の子もどうかと誘った。
ところが、そのこどもの国がまだ自粛中で全てのイベント中止だったので、行き先を再検討。
夫の提案で、他の公園に決定。
その変更先が長男家の近場ということで、
生まれて1か月半のⅯ君も、急遽参加して、今回従兄弟合わせて4人の初めてのお出かけが実現したのでした。
それにしても、2か月もたってない乳児なのに大丈夫?かと内心おもったのですが、2週間ぶりに会ったⅯ君は、お兄ちゃんの公園に毎日付き合っているとかで、2か月の乳児には見えないほど、既に足が小麦色(笑)、お嫁さんも久しぶりのお出かけでリフレッシュできたようで良かったです。
そして、帰り支度中、察した孫二人が「まだ帰らない〰️!」と駄々をこねた泣き顔が、子供達の昔の姿と重なり何とも可愛かったです。
夫にポリープが見つかったのは、3ヶ月前のこと。
診ていただいたのは、近所のかかりつけ医の個人クリニックだったので、紹介状を書いてもらって総合病院で切除してもらうことになっていました。
その後病院を決めるに当たり色々あったものの、先程無事切除手術が終わりました。
術後の説明を聞き終わり、ドトールで休憩しています。
生検の結果は後日になりますが、出血もなく、予定通り入院を逃れることができたので、取り敢えず、一安心。
帰路の新東名の私の運転がちょっと心配ではありますが‥(^_^;)
診ていただいたのは、近所のかかりつけ医の個人クリニックだったので、紹介状を書いてもらって総合病院で切除してもらうことになっていました。
その後病院を決めるに当たり色々あったものの、先程無事切除手術が終わりました。
術後の説明を聞き終わり、ドトールで休憩しています。
生検の結果は後日になりますが、出血もなく、予定通り入院を逃れることができたので、取り敢えず、一安心。
帰路の新東名の私の運転がちょっと心配ではありますが‥(^_^;)
厳かに、無事終えました。
義母の懐石料理にも飽きたとの意見で、今回は、お店も変えて、鰻御膳にしました。
今年の鰻の日は、私の体調が悪くて義母も食べていなかったので、久しぶりの鰻に満足そうで良かったです。
供養になったかな…
義母の懐石料理にも飽きたとの意見で、今回は、お店も変えて、鰻御膳にしました。
今年の鰻の日は、私の体調が悪くて義母も食べていなかったので、久しぶりの鰻に満足そうで良かったです。
供養になったかな…
新東名高速の駿河沼津パーキングは、一般道からも進入可能で、最近ETCスマートインターも新設されました。
今日は、生憎いかにも梅雨シーズンらしいどんよりした空模様、いつもは眼下に広がる真っ青な駿河湾がとっても気持ちいいのに…ちょっぴり残念。
所要時間、5分でした。(苦笑)
今日は、生憎いかにも梅雨シーズンらしいどんよりした空模様、いつもは眼下に広がる真っ青な駿河湾がとっても気持ちいいのに…ちょっぴり残念。
所要時間、5分でした。(苦笑)
父が、今月26日88歳になりました。
めでたいめでたい米寿です✨
ささやかではありますが、兄弟夫婦孫一同集まって、お祝いの席を設けました。
総勢16名、目を細めて喜ぶ父の回りでたくさんの笑顔の花が咲きました。
一時は車椅子生活を覚悟した一昨年から、見事な回復力で、今では骨折手術する前とほとんど変わらぬ生活を送っています。
有り難いことです。
孫が産まれる前の父は、長生きに否定的な発言ばかりでしたが、特にここ最近は、長生きしてるといいこともあるなあ~と口にしてくれるようになりました。
同居してくれている兄夫婦に、感謝です。
めでたいめでたい米寿です✨
ささやかではありますが、兄弟夫婦孫一同集まって、お祝いの席を設けました。
総勢16名、目を細めて喜ぶ父の回りでたくさんの笑顔の花が咲きました。
一時は車椅子生活を覚悟した一昨年から、見事な回復力で、今では骨折手術する前とほとんど変わらぬ生活を送っています。
有り難いことです。
孫が産まれる前の父は、長生きに否定的な発言ばかりでしたが、特にここ最近は、長生きしてるといいこともあるなあ~と口にしてくれるようになりました。
同居してくれている兄夫婦に、感謝です。
長男の結婚式でスタートした10月も、気が付けば明日1日を残すだけ。
北の窓から覗く富士の裾野も茶褐色に色づき始めました。
年々月日の速さに、思考がついていかず(体も・・)カレンダーの月日を後追いしているような感じです。
今月は、リウマチ検査のことや天然酵母の種づくり、料理教室、漬物教室、美術館散歩と色々書き留めておきたいこともあったのに、残念な自分にがっかりです。
今日は、重ね着で誤魔化し先延ばしにしていた衣替えを済ませました。^^;
北の窓から覗く富士の裾野も茶褐色に色づき始めました。
年々月日の速さに、思考がついていかず(体も・・)カレンダーの月日を後追いしているような感じです。
今月は、リウマチ検査のことや天然酵母の種づくり、料理教室、漬物教室、美術館散歩と色々書き留めておきたいこともあったのに、残念な自分にがっかりです。
今日は、重ね着で誤魔化し先延ばしにしていた衣替えを済ませました。^^;
結婚記念日でした。
帰りに、車のナンバープレートを見て、思い出した~(^_^;)間一髪!
と、夫が久しぶりに花を買ってきてくれました。
中トロ入りのお刺身盛り合わせ奮発しておいて、良かった~
早?やっと?30年が、たちました。
ここまで、大病を患うこともなく、事故や災害に巻き込まれることもなく過ごせたのは、とても幸運でした。
それでも、時には人並みに波風がたつこともあったし、一筋縄ではいかない個性豊な義両親との同居生活、生後6ヶ月からの次男の食アレルギー除去食との悪戦苦闘…と、振り返れば色々ありました。
子育て時代には、子供のいない生活なんて想像できなかったけれど、子供たちが家を離れ10年、二人で過ごす時間も徐々に増え、いつしか子供たちが帰省してくると、逆に緊張したりして、可笑しな感じです。
そんな今は、夫婦というか、家族の幸せを願う同志という呼び方がしっくりくるような気がします。
ま、ともあれ、よくぞ30年もちました。
と、二人で祝杯をあげました。
夜、次男から祝福メールありました。
よく覚えていてくれたと、驚きながらも、感謝感謝。
歳をとったせいか、離れて暮らしていると、そんな些細なことにも、涙腺が緩みます。
帰りに、車のナンバープレートを見て、思い出した~(^_^;)間一髪!
と、夫が久しぶりに花を買ってきてくれました。
中トロ入りのお刺身盛り合わせ奮発しておいて、良かった~
早?やっと?30年が、たちました。
ここまで、大病を患うこともなく、事故や災害に巻き込まれることもなく過ごせたのは、とても幸運でした。
それでも、時には人並みに波風がたつこともあったし、一筋縄ではいかない個性豊な義両親との同居生活、生後6ヶ月からの次男の食アレルギー除去食との悪戦苦闘…と、振り返れば色々ありました。
子育て時代には、子供のいない生活なんて想像できなかったけれど、子供たちが家を離れ10年、二人で過ごす時間も徐々に増え、いつしか子供たちが帰省してくると、逆に緊張したりして、可笑しな感じです。
そんな今は、夫婦というか、家族の幸せを願う同志という呼び方がしっくりくるような気がします。
ま、ともあれ、よくぞ30年もちました。
と、二人で祝杯をあげました。
夜、次男から祝福メールありました。
よく覚えていてくれたと、驚きながらも、感謝感謝。
歳をとったせいか、離れて暮らしていると、そんな些細なことにも、涙腺が緩みます。
早いもので、29年が経過しました。
今日は、私たちが親になった記念日。
すなわち、長男がこの世に生を受けた日です。
初めて抱く壊れそうな我が子への溢れんばかりの喜びや期待もありましたが、それ以上に親としての不安やプレッシャーもたくさんあったことを思い出します。
今日は、私たちが親になった記念日。
すなわち、長男がこの世に生を受けた日です。
初めて抱く壊れそうな我が子への溢れんばかりの喜びや期待もありましたが、それ以上に親としての不安やプレッシャーもたくさんあったことを思い出します。
薫風香る新緑が眩しい四月のとある土曜日、お日様も祝福してくれて次男夫婦の結婚式を無事挙げることができました。
派手なパフォーマンスもなければ、特別演出らしいものもなかったけれど、若い二人が拘っただけあって、あちらこちらで笑顔の花が咲いた和やかな式でした。
おめでとう♪
親の願いは、ただひとつです。
幸あれ!
派手なパフォーマンスもなければ、特別演出らしいものもなかったけれど、若い二人が拘っただけあって、あちらこちらで笑顔の花が咲いた和やかな式でした。
おめでとう♪
親の願いは、ただひとつです。
幸あれ!
県内とはいえ、なかなか行く機会がない伊豆半島。
今回は、ふるさと割りを使っての、お一人三千円割引というお得プラン。
水仙まつり中の石廊崎は、ものすごい風で寒かったけど、遠く海の向こうに浮かぶ大島やペリー艦隊来航の記念碑をみながら歴史のロマンを感じたり、翌日は、童心にかえってイチゴ狩り楽しんだりと、心に残る旅となりました。
名物の金目鯛の煮付けを初め、アワビのステーキなどなど胃袋も満たされて、みんなも大満足してくれたようで、企画は大成功。
今回は、ふるさと割りを使っての、お一人三千円割引というお得プラン。
水仙まつり中の石廊崎は、ものすごい風で寒かったけど、遠く海の向こうに浮かぶ大島やペリー艦隊来航の記念碑をみながら歴史のロマンを感じたり、翌日は、童心にかえってイチゴ狩り楽しんだりと、心に残る旅となりました。
名物の金目鯛の煮付けを初め、アワビのステーキなどなど胃袋も満たされて、みんなも大満足してくれたようで、企画は大成功。
土曜日、父が退院しました。
入院が11月12日だったから約1ヵ月半。
本人も相当ストレスがたまっていたようだけれど、母の胃腸炎と重なって、みんなで協力したから何とか乗りきることができました。
さて、父の股関節ですが、痛みは引きよくなってきたのですが、元の膝の持病もあって一歩一歩前に出す足元は、心もとなく杖で8メートル歩ければいいほう。
で、家に帰ってからの生活の中で一番心配なのが、トイレ。
今までは、3メートルほどの距離でさえ看護師さんが介助して車椅子で行っていたので、よかったのですが、自宅の寝室からトイレまでの動線は、10メートル弱。
とりあえず、我が家にあるポータブルトイレを持っていくことにしました。
昼間は、リハビリを兼ねて、杖と手摺を頼りに自力歩行に挑戦。
ゆっくりだけれど、なんとか安定した歩みで、これなら大丈夫。
ところが、問題は夜。
頻尿で、夜に3回は起きるという父。
寝ぼけて、転倒されては困るので、夜はベッド脇に置いたポータブルを利用してもらおうと、設置したのですが、なぜか頑なに拒む父。
致し方なく、その日は私が泊まって隣に布団をひき、介助することにしました。
幼い頃、父の隣で眠った思い出に懐かしく浸る・・・なんて悠長なことを言ってる場合ではなく。
父、10時就寝。 私11時就寝
1回目、12時
2回目、1時半
3回目、3時半
4回目、6時
慎重に歩く父の後ろからついて再び床につくまで25分。
付き添うたびに、「起こしちゃって、悪いね、ありがとね、」
と繰り返す父が、とても小さく見えて、その言葉が嬉しいはずなのに頷くことしかできなくて、なぜか切ないくて。
とりあえず、転ばなくてよかったです。
しかし、眠かった・・・・です。><
そして翌日は、妹。
先ほど、妹から連絡あって、「やっぱりポータブルは却下されたよ~。で、何回か起きれなくて、気がついたら戻ってきたところだった・・・(T T)って。
入院が11月12日だったから約1ヵ月半。
本人も相当ストレスがたまっていたようだけれど、母の胃腸炎と重なって、みんなで協力したから何とか乗りきることができました。
さて、父の股関節ですが、痛みは引きよくなってきたのですが、元の膝の持病もあって一歩一歩前に出す足元は、心もとなく杖で8メートル歩ければいいほう。
で、家に帰ってからの生活の中で一番心配なのが、トイレ。
今までは、3メートルほどの距離でさえ看護師さんが介助して車椅子で行っていたので、よかったのですが、自宅の寝室からトイレまでの動線は、10メートル弱。
とりあえず、我が家にあるポータブルトイレを持っていくことにしました。
昼間は、リハビリを兼ねて、杖と手摺を頼りに自力歩行に挑戦。
ゆっくりだけれど、なんとか安定した歩みで、これなら大丈夫。
ところが、問題は夜。
頻尿で、夜に3回は起きるという父。
寝ぼけて、転倒されては困るので、夜はベッド脇に置いたポータブルを利用してもらおうと、設置したのですが、なぜか頑なに拒む父。
致し方なく、その日は私が泊まって隣に布団をひき、介助することにしました。
幼い頃、父の隣で眠った思い出に懐かしく浸る・・・なんて悠長なことを言ってる場合ではなく。
父、10時就寝。 私11時就寝
1回目、12時
2回目、1時半
3回目、3時半
4回目、6時
慎重に歩く父の後ろからついて再び床につくまで25分。
付き添うたびに、「起こしちゃって、悪いね、ありがとね、」
と繰り返す父が、とても小さく見えて、その言葉が嬉しいはずなのに頷くことしかできなくて、なぜか切ないくて。
とりあえず、転ばなくてよかったです。
しかし、眠かった・・・・です。><
そして翌日は、妹。
先ほど、妹から連絡あって、「やっぱりポータブルは却下されたよ~。で、何回か起きれなくて、気がついたら戻ってきたところだった・・・(T T)って。
陽が西の空に傾きかけていた夕刻、
「今、無事提出してきました。」
と、長男からメールが入りました。
入籍を済ませた報告です。
おめでとう❗
心を込めて、彼らがいる西方に向かって、呟きました。
見上げた空は、まるで照れているかのようなほんのり茜色でした。
「今、無事提出してきました。」
と、長男からメールが入りました。
入籍を済ませた報告です。
おめでとう❗
心を込めて、彼らがいる西方に向かって、呟きました。
見上げた空は、まるで照れているかのようなほんのり茜色でした。
義父の四十九日法要を終え、香典返しの手配もようやく済み、やっとひと段落!という矢先、
12日の夕方、実家の兄から電話が入りました。
実家の父が、転倒し、大腿骨骨折で入院したとのこと、人工関節手術が17日だという連絡でした。
翌日の13日に面会に行くと、ベッドに横たわり、痛い痛い!もう迎えに来て欲しい・・・・とうつろに訴える父の姿。
今までに父の弱音など耳にしたことが無かったので、その姿がとても切なくなんと励ましたらいいのやら、血行が悪く冷たくなった右足をマッサージするだけが精一杯。
翌日から病院のインフルエンザ対策で、面会制限がかかった為、次に行ったのは、手術当日の17日でした。
1時半からと聞いていたので、昼ごはんもそこそこ1時に駆けつけたものの、父がオペ室へ入ったのは、16時。
そして手術が終わったのが、18時少し前。
麻酔が効いているはずなのに、相変わらず、大きな声であ-----、いた~い!!
と叫ぶように訴える父。 この時ばかりは、堪えることができず、涙が溢れてきてしまいました。
激痛に耐えられず、無意識に身体をよじってしまうので、装着した器具が外れては困るから、今晩は付き添って欲しい、と担当看護師から依頼があり、仕事を持っていない私が付き添いをかってでました。
普段、口数が少なく素っ気無い兄が、「ありがとう。助かるよ。」と申し訳なさそうに、言ってくれたのがくすぐったかったです。^^
妹と実家の義姉が面会時間ギリギリの8時まで、一緒に父を励ましてくれたのも心強かったです。
それ以後は、父とともに2人で痛みと戦うわけですが、静かになりいびきをかき始めたので、寝たかな~とさすっていた手を足から離すと、、痛い、痛い!と子供のように騒ぎ出し、手を休めることもできず。
12時ごろかな?握っていた手が熱く感じたので、巡回してきた看護師さんに告げ、検温してもらうと、38.8分の高熱。
乱れた衣服を治してもらって、その間、トイレに席をはずそうとした時、立ちくらみをおこしてしまい、見かねた看護師さんが、ナースステーションへ移動して私たちが見ますから、横のベッドで休んでいてください。とベッドを用意してくださいました。
手術後の患者さんと同じ部屋だったので、熟睡はできなかったものの、5時までの数時間、身体を休めることができありがたかったです。
前回の時といい、肝心なところで、役にたたない虚弱な自分が情けないのだけれど、それだけ年をとったということですね。
そろそろ、自分の体のことも気にかけなくてはならない年齢に差し掛かったということなのでしょう。
さて、長くて辛い一夜が明けた父の様子を恐る恐る見に行くと、「手術は、終わった?」と、予想だにしない一声。@@
「もう、朝だよ。」というと、
「そうか~、オペ室にはいったきり、ぐっすり眠ってしまったよ。」
ですって。
苦痛な記憶はないほうがいいけれど、うなされている時って、眠っている状態なのかな??
しかも、会話しているのが私と気がつかず、看護師さんだと思って、息子夫婦のことやら世間話をしだす始末。(笑)
その後は、痛みを訴えることも無かったので、12時過ぎに母と交代。
私の長い長い付き添いが終わり、帰宅しシャワーを浴び、夕方まで3時間ほど熟睡。。
大変な1日だったけれど、これからまた、過酷なリハビリがまっているので、1日でも早く退院できるように応援しなきゃ。
ともあれ、今年中に、退院できるといいな~!
余談
驚いたのは、最近、ちっとも体重が減らなかったのに、たった1日で、2キロ減少。
翌日には、いとも簡単に、戻りましたけれど・・・^^;
12日の夕方、実家の兄から電話が入りました。
実家の父が、転倒し、大腿骨骨折で入院したとのこと、人工関節手術が17日だという連絡でした。
翌日の13日に面会に行くと、ベッドに横たわり、痛い痛い!もう迎えに来て欲しい・・・・とうつろに訴える父の姿。
今までに父の弱音など耳にしたことが無かったので、その姿がとても切なくなんと励ましたらいいのやら、血行が悪く冷たくなった右足をマッサージするだけが精一杯。
翌日から病院のインフルエンザ対策で、面会制限がかかった為、次に行ったのは、手術当日の17日でした。
1時半からと聞いていたので、昼ごはんもそこそこ1時に駆けつけたものの、父がオペ室へ入ったのは、16時。
そして手術が終わったのが、18時少し前。
麻酔が効いているはずなのに、相変わらず、大きな声であ-----、いた~い!!
と叫ぶように訴える父。 この時ばかりは、堪えることができず、涙が溢れてきてしまいました。
激痛に耐えられず、無意識に身体をよじってしまうので、装着した器具が外れては困るから、今晩は付き添って欲しい、と担当看護師から依頼があり、仕事を持っていない私が付き添いをかってでました。
普段、口数が少なく素っ気無い兄が、「ありがとう。助かるよ。」と申し訳なさそうに、言ってくれたのがくすぐったかったです。^^
妹と実家の義姉が面会時間ギリギリの8時まで、一緒に父を励ましてくれたのも心強かったです。
それ以後は、父とともに2人で痛みと戦うわけですが、静かになりいびきをかき始めたので、寝たかな~とさすっていた手を足から離すと、、痛い、痛い!と子供のように騒ぎ出し、手を休めることもできず。
12時ごろかな?握っていた手が熱く感じたので、巡回してきた看護師さんに告げ、検温してもらうと、38.8分の高熱。
乱れた衣服を治してもらって、その間、トイレに席をはずそうとした時、立ちくらみをおこしてしまい、見かねた看護師さんが、ナースステーションへ移動して私たちが見ますから、横のベッドで休んでいてください。とベッドを用意してくださいました。
手術後の患者さんと同じ部屋だったので、熟睡はできなかったものの、5時までの数時間、身体を休めることができありがたかったです。
前回の時といい、肝心なところで、役にたたない虚弱な自分が情けないのだけれど、それだけ年をとったということですね。
そろそろ、自分の体のことも気にかけなくてはならない年齢に差し掛かったということなのでしょう。
さて、長くて辛い一夜が明けた父の様子を恐る恐る見に行くと、「手術は、終わった?」と、予想だにしない一声。@@
「もう、朝だよ。」というと、
「そうか~、オペ室にはいったきり、ぐっすり眠ってしまったよ。」
ですって。
苦痛な記憶はないほうがいいけれど、うなされている時って、眠っている状態なのかな??
しかも、会話しているのが私と気がつかず、看護師さんだと思って、息子夫婦のことやら世間話をしだす始末。(笑)
その後は、痛みを訴えることも無かったので、12時過ぎに母と交代。
私の長い長い付き添いが終わり、帰宅しシャワーを浴び、夕方まで3時間ほど熟睡。。
大変な1日だったけれど、これからまた、過酷なリハビリがまっているので、1日でも早く退院できるように応援しなきゃ。
ともあれ、今年中に、退院できるといいな~!
余談
驚いたのは、最近、ちっとも体重が減らなかったのに、たった1日で、2キロ減少。
翌日には、いとも簡単に、戻りましたけれど・・・^^;
その日は、突然やってきました。
先週木曜日、義父が息をひきとりました。
昨夏の入院の際、その日がいつきても不思議はないと覚悟はできていたものの、1月に再入院、退院してからここのところは、穏やかな時間が流れていたので、すっかり安心していたところの急変でした。まだまだやること山積みですが、ようやく今日一息。
明日二つ用事を済ませて、
あとは、ボチボチ片付けていこうと思います。
今日は、朝方の暴風雨が嘘のような秋晴れ。
落ち着いたらまた備忘録として、遡って記録するつもりです。
画像が横でアップされちゃいました。f(^_^;
先週木曜日、義父が息をひきとりました。
昨夏の入院の際、その日がいつきても不思議はないと覚悟はできていたものの、1月に再入院、退院してからここのところは、穏やかな時間が流れていたので、すっかり安心していたところの急変でした。まだまだやること山積みですが、ようやく今日一息。
明日二つ用事を済ませて、
あとは、ボチボチ片付けていこうと思います。
今日は、朝方の暴風雨が嘘のような秋晴れ。
落ち着いたらまた備忘録として、遡って記録するつもりです。
画像が横でアップされちゃいました。f(^_^;
前夜、救急に行っている間に、Yちゃんが朝食用におにぎりを作っていてくれたので、お言葉に甘えて、朝はゆっくり8時に起床。
実際には、目が覚めたのは6時頃だったのですが、眩暈が心配だったので、2時間ほど布団の中でうつらうつら・・・。
みんなが朝食を食べている間に、おそるおそる起きだし、大丈夫そうだったのでシャワーを浴びて、身体もすっきり!
それでも、ごはんものを胃の中にいれるのは怖かったので、非常食用のドリンクゼリーで様子見。
よし!この分ならなんとか通夜にも出席できそう!
念のため、処方してもらった眩暈、吐き気止め、胃薬、の薬を服用。
長男は、よっぽど疲れたのか、10時頃まで爆睡してました。(帰省しても救急につき合わされてはね・・・)
午後1時には、納棺士(おくりびと ですね)の方がお見えになる予定だったので、お昼までのんびり~と構えていたら、義母が玄関でなにやら騒いでいる。
夫が言うには、喪服の草履が小さくてはいらない!とのこと。
私のものもそうだけれど、喪服用の小物は一揃いパックで揃えてあるので、普通は標準サイズ。
ところが、義母の足のサイズは、24.5から25というビッグサイズなのです。
どうして、昨日の足袋の時に、気がつかなかったのかな~!!!
と、お年寄りに今更いっても仕方ないので、すぐに昨日の呉服屋さんに電話して、
そのサイズの草履があるか確認してもらう。
「ちょうど、先週いれたばかりなのよ~」と、いうので、夫に場所を教えて買ってきてもらいました。
と、相変わらず寸前までバタバタしながらも、軽く昼ごはんを済ませ、私は朝のおにぎりをひとつ、午後時間通りお見えになった納棺士さんの手によって、旅立ちの準備が整った義父は、とても穏やかな顔で、それはそれは綺麗で、仮眠しているだけのようでした。
その後、ご近所の方々が道で待っていてくださり、皆様に見送られながら葬儀場へと向かいました。
葬儀場に着くと、昨日とうって変わって、高く広がる秋の空が迎えてくれました。
実際には、目が覚めたのは6時頃だったのですが、眩暈が心配だったので、2時間ほど布団の中でうつらうつら・・・。
みんなが朝食を食べている間に、おそるおそる起きだし、大丈夫そうだったのでシャワーを浴びて、身体もすっきり!
それでも、ごはんものを胃の中にいれるのは怖かったので、非常食用のドリンクゼリーで様子見。
よし!この分ならなんとか通夜にも出席できそう!
念のため、処方してもらった眩暈、吐き気止め、胃薬、の薬を服用。
長男は、よっぽど疲れたのか、10時頃まで爆睡してました。(帰省しても救急につき合わされてはね・・・)
午後1時には、納棺士(おくりびと ですね)の方がお見えになる予定だったので、お昼までのんびり~と構えていたら、義母が玄関でなにやら騒いでいる。
夫が言うには、喪服の草履が小さくてはいらない!とのこと。
私のものもそうだけれど、喪服用の小物は一揃いパックで揃えてあるので、普通は標準サイズ。
ところが、義母の足のサイズは、24.5から25というビッグサイズなのです。
どうして、昨日の足袋の時に、気がつかなかったのかな~!!!
と、お年寄りに今更いっても仕方ないので、すぐに昨日の呉服屋さんに電話して、
そのサイズの草履があるか確認してもらう。
「ちょうど、先週いれたばかりなのよ~」と、いうので、夫に場所を教えて買ってきてもらいました。
と、相変わらず寸前までバタバタしながらも、軽く昼ごはんを済ませ、私は朝のおにぎりをひとつ、午後時間通りお見えになった納棺士さんの手によって、旅立ちの準備が整った義父は、とても穏やかな顔で、それはそれは綺麗で、仮眠しているだけのようでした。
その後、ご近所の方々が道で待っていてくださり、皆様に見送られながら葬儀場へと向かいました。
葬儀場に着くと、昨日とうって変わって、高く広がる秋の空が迎えてくれました。
この日は、朝から、雨。
義父が降らせた涙雨でしょうか。
通夜、葬儀を土日にしたので、翌日の金曜日はまるまる準備にあてることができました。
前日メールで知らせておいた子供達とも連絡がとれ、2人とも有給をとって駆けつけてくれるという、兄弟のいない夫にとっては、大変ありがたい助っ人です。
といっても、長男は朝の回診をし、引継ぎを終えてから、次男夫婦も朝会社に出勤して一仕事片付けてから・・・というので、午後になりそう。
夫も、前日仕事を放り投げて駆けつけたので、アポをひとつこなしに午前中はいつもどおり出勤。
というわけで、朝はいつものように(結局前日3時間ほどしか眠れなかったので5時起床)、淡々と炊事洗濯とこなし、泊まる子供達の3人分の寝具の準備。
9時頃、葬儀社の方が見え、玄関先に通夜葬儀の案内板を設置してくれ、受付をはじめとする葬儀の段取り、故人のビデオ編集に使用する写真、弔辞をいただく方、出棺の際いろんなものを持つ人の人選など細かい打ち合わせが続き、あとは夫待って午後にまた。
祖母が「葬儀で着る喪服の着物の小物を見て」、というので、そちらも確認←実は前日から着物を引っ張り出し見て欲しいと言われていたのだけれど、明日みるからとなだめておいたのでした^^;
そして自分のことはさておき、まずは義母の長襦袢から帯揚げ伊達締めなどなど一つ一つ小物をチェック。
足袋がないことがわかり、午後来る次男に一緒に同行してもらうことにする。
そんな最中にも、ご近所の方々や親族の方が弔問に訪れ、気がつくと早11時半。
タイミングよく次男夫婦が到着したので、家族のお昼の買いだしを依頼。
12時半、夫が帰宅したところで、午前中の報告とこの後のことを相談しながら、みんなで昼食。
お嫁ちゃんが、「手伝えることがあったら、何でも言ってください。そのために来ましたから。」と、なんとも心強いことを言ってくれたので、夕食はYちゃんにカレーを作ってもらうことにする。
カレーなら、時間のある時につくれるし、いつでも都合のいいときに食べれるしね。
昼食後、次男に祖母の同行を依頼し、ついでに白いハンカチを10枚ほど購入を依頼、カレーの具材を用意しYちゃんに頼んで、夫には当座支払うお金を用意するべく銀行に行ってしてもらって、ようやく自分の喪服、着物の準備。
一息するまもなく、2時半頃長男が到着し、頼んでおいたお別れの言葉の原稿を見てというので、目を通す。
10分後実家の母と兄夫婦が弔問に来てくれ、お供物の相談。
その後も、また葬儀社の方と、お供物の配置相談、通夜払い、火葬場での昼食、終了後の払い膳の個数確認など、あまりにもたくさんある決め事に驚きながらもこなすしかなく、夫と確認しながら進めていく。
それでも、夕方6時過ぎた頃には人の出入りも落ち着き、7時前にはみんなで食卓を囲むことができ、6人で揃うのは始めてだね~なんて和やかにカレーとサラダで夕食を食べることができました。
「今日は明日に備えて早めに休みましょう」
と、祖母、Mちゃん、長男と順次入浴してもらっているとき、実家の兄から電話があり、色々アドバイスされながら、15分ほどの雑談。
ところが、明日の朝食の準備をしようとしたところで、えっ???
グルグル天井が回りだして、耳の中がぼわ~んと鈍く圧迫されるような変な感じが(耳鳴り?)して、2階に行くのがやっと。
階段をあがった途端、激しい嘔吐に襲われ、何度もリバース。
洗面所で30分程座り込んで、そろそろ大丈夫かな~、
とMちゃんにお水をもらって飲んだら、今度はブルブルと悪寒がして震えがとまらない。
夫が検温してくれると、なんと34.5℃。 @@
ホッカイロやブランケットやらで、暖めてもらっても震えは治まらず、入浴し終えた長男が、脈を図ってくれたり、指で目線を追うような診察?をしてくれ、たぶん大丈夫だと思うけれど、34℃台の体温は初めてで、意識も朦朧としていたようで、念のためということで、タクシーを呼んで救急診療へと付き添ってくれました。
診察中、過呼吸によるパニック発作がおこったものの、血液検査、頭部からの全身CT検査、寝たままのレントゲン、と検査のフルコースをうけ、胃が異常に膨らんでいるほかは異常なし、急性ストレスによる三半規管の乱れでしょう。。。との診断でした。
カリウム入りの点滴処置をしてもらって、お薬3種をいただき家に着いたのは日にちをまたぐ時間となっておりました。
夫は、緊急入院に備え荷物の準備してくれていたり、みんなも寝ずに待っていてくれて、ほんと申し訳なかったです。
夫に変わり、同じ部屋で寝てくれていた長男によると、ベッドにはいるなりグッスリ熟睡していたとのこと、点滴効果もあってかめまいも耳鳴りも治まり、体調も戻って一安心。
しっかりしなければいけない時なのに、とんだ失態で、一番びっくりしたのは、私自身でした。
でも、逆にダウンしたのが通夜葬儀の式の最中ではなく、この日で、その後の式にも無事参列できてよかったと、今にしてみれば思います。
義父が降らせた涙雨でしょうか。
通夜、葬儀を土日にしたので、翌日の金曜日はまるまる準備にあてることができました。
前日メールで知らせておいた子供達とも連絡がとれ、2人とも有給をとって駆けつけてくれるという、兄弟のいない夫にとっては、大変ありがたい助っ人です。
といっても、長男は朝の回診をし、引継ぎを終えてから、次男夫婦も朝会社に出勤して一仕事片付けてから・・・というので、午後になりそう。
夫も、前日仕事を放り投げて駆けつけたので、アポをひとつこなしに午前中はいつもどおり出勤。
というわけで、朝はいつものように(結局前日3時間ほどしか眠れなかったので5時起床)、淡々と炊事洗濯とこなし、泊まる子供達の3人分の寝具の準備。
9時頃、葬儀社の方が見え、玄関先に通夜葬儀の案内板を設置してくれ、受付をはじめとする葬儀の段取り、故人のビデオ編集に使用する写真、弔辞をいただく方、出棺の際いろんなものを持つ人の人選など細かい打ち合わせが続き、あとは夫待って午後にまた。
祖母が「葬儀で着る喪服の着物の小物を見て」、というので、そちらも確認←実は前日から着物を引っ張り出し見て欲しいと言われていたのだけれど、明日みるからとなだめておいたのでした^^;
そして自分のことはさておき、まずは義母の長襦袢から帯揚げ伊達締めなどなど一つ一つ小物をチェック。
足袋がないことがわかり、午後来る次男に一緒に同行してもらうことにする。
そんな最中にも、ご近所の方々や親族の方が弔問に訪れ、気がつくと早11時半。
タイミングよく次男夫婦が到着したので、家族のお昼の買いだしを依頼。
12時半、夫が帰宅したところで、午前中の報告とこの後のことを相談しながら、みんなで昼食。
お嫁ちゃんが、「手伝えることがあったら、何でも言ってください。そのために来ましたから。」と、なんとも心強いことを言ってくれたので、夕食はYちゃんにカレーを作ってもらうことにする。
カレーなら、時間のある時につくれるし、いつでも都合のいいときに食べれるしね。
昼食後、次男に祖母の同行を依頼し、ついでに白いハンカチを10枚ほど購入を依頼、カレーの具材を用意しYちゃんに頼んで、夫には当座支払うお金を用意するべく銀行に行ってしてもらって、ようやく自分の喪服、着物の準備。
一息するまもなく、2時半頃長男が到着し、頼んでおいたお別れの言葉の原稿を見てというので、目を通す。
10分後実家の母と兄夫婦が弔問に来てくれ、お供物の相談。
その後も、また葬儀社の方と、お供物の配置相談、通夜払い、火葬場での昼食、終了後の払い膳の個数確認など、あまりにもたくさんある決め事に驚きながらもこなすしかなく、夫と確認しながら進めていく。
それでも、夕方6時過ぎた頃には人の出入りも落ち着き、7時前にはみんなで食卓を囲むことができ、6人で揃うのは始めてだね~なんて和やかにカレーとサラダで夕食を食べることができました。
「今日は明日に備えて早めに休みましょう」
と、祖母、Mちゃん、長男と順次入浴してもらっているとき、実家の兄から電話があり、色々アドバイスされながら、15分ほどの雑談。
ところが、明日の朝食の準備をしようとしたところで、えっ???
グルグル天井が回りだして、耳の中がぼわ~んと鈍く圧迫されるような変な感じが(耳鳴り?)して、2階に行くのがやっと。
階段をあがった途端、激しい嘔吐に襲われ、何度もリバース。
洗面所で30分程座り込んで、そろそろ大丈夫かな~、
とMちゃんにお水をもらって飲んだら、今度はブルブルと悪寒がして震えがとまらない。
夫が検温してくれると、なんと34.5℃。 @@
ホッカイロやブランケットやらで、暖めてもらっても震えは治まらず、入浴し終えた長男が、脈を図ってくれたり、指で目線を追うような診察?をしてくれ、たぶん大丈夫だと思うけれど、34℃台の体温は初めてで、意識も朦朧としていたようで、念のためということで、タクシーを呼んで救急診療へと付き添ってくれました。
診察中、過呼吸によるパニック発作がおこったものの、血液検査、頭部からの全身CT検査、寝たままのレントゲン、と検査のフルコースをうけ、胃が異常に膨らんでいるほかは異常なし、急性ストレスによる三半規管の乱れでしょう。。。との診断でした。
カリウム入りの点滴処置をしてもらって、お薬3種をいただき家に着いたのは日にちをまたぐ時間となっておりました。
夫は、緊急入院に備え荷物の準備してくれていたり、みんなも寝ずに待っていてくれて、ほんと申し訳なかったです。
夫に変わり、同じ部屋で寝てくれていた長男によると、ベッドにはいるなりグッスリ熟睡していたとのこと、点滴効果もあってかめまいも耳鳴りも治まり、体調も戻って一安心。
しっかりしなければいけない時なのに、とんだ失態で、一番びっくりしたのは、私自身でした。
でも、逆にダウンしたのが通夜葬儀の式の最中ではなく、この日で、その後の式にも無事参列できてよかったと、今にしてみれば思います。
徒歩ででかけた郵便局からの帰り道、夫からの電話を受信。 am 9:50
朝食後義父が元気がなく血圧が低下しているので、主治医の指示で病院に連れてくるようにということで、診察してもらうとの報告が施設の方から連絡があったという。
(こういうことは、以前にも度々あり。)
この時、義母は、健康体操教室に行っていて不在。
診察後、付き添いのかたが、また連絡くれるということになっていたので、私は家で待機市連絡待ち。
義母帰宅 am 11:15
夫から2度目の電話 am 11:27
施設付き添いのかたからの連絡で、「誰でもいいので家族の方来て下さい。」とのこと。
義母と2人で病院へ向かう。 am 11:35
この時点でも、義父の容態は聞かされていない。
もしや?と一瞬頭を掠めたけれど、口にだすと当たってしまうような気がして、呑み込み急ぐ。
病院到着。 am 11:48
玄関前にて、看護師さん、施設付き添いの方々が待ち構えており、この時初めてただ事ではないことを察する。
診察室脇部屋のベッドに横たわり、心臓マッサージを受けている義父と対面しながら、主治医の説明をうける。
診察し始めた頃は、会話も普通にしていたのがじょじょに意識低下、その後間もなく心肺停止状態になり、電気ショック、心臓マッサージ等救命措置を今まで30分近く施していますとのこと。
瞳孔も拡大していることなので、
「お爺ちゃん、頑張ったね。」
と、まだ温もりにある義父の手を触って、先生に、「ありがとうございました」と告げる。
主治医の死亡宣告。 am 11:52
享年 86歳 義父の人生の幕が下りた瞬間でした。
朝食後義父が元気がなく血圧が低下しているので、主治医の指示で病院に連れてくるようにということで、診察してもらうとの報告が施設の方から連絡があったという。
(こういうことは、以前にも度々あり。)
この時、義母は、健康体操教室に行っていて不在。
診察後、付き添いのかたが、また連絡くれるということになっていたので、私は家で待機市連絡待ち。
義母帰宅 am 11:15
夫から2度目の電話 am 11:27
施設付き添いのかたからの連絡で、「誰でもいいので家族の方来て下さい。」とのこと。
義母と2人で病院へ向かう。 am 11:35
この時点でも、義父の容態は聞かされていない。
もしや?と一瞬頭を掠めたけれど、口にだすと当たってしまうような気がして、呑み込み急ぐ。
病院到着。 am 11:48
玄関前にて、看護師さん、施設付き添いの方々が待ち構えており、この時初めてただ事ではないことを察する。
診察室脇部屋のベッドに横たわり、心臓マッサージを受けている義父と対面しながら、主治医の説明をうける。
診察し始めた頃は、会話も普通にしていたのがじょじょに意識低下、その後間もなく心肺停止状態になり、電気ショック、心臓マッサージ等救命措置を今まで30分近く施していますとのこと。
瞳孔も拡大していることなので、
「お爺ちゃん、頑張ったね。」
と、まだ温もりにある義父の手を触って、先生に、「ありがとうございました」と告げる。
主治医の死亡宣告。 am 11:52
享年 86歳 義父の人生の幕が下りた瞬間でした。